PRESIDENT'S BLOG夢への扉
2025.02.20
その150 “温故知新 ~ターニングポイント~” 第4回「成長」編
1955年に初の本格的なアッセンブリーを納入以降、石川鉄工はボールジョイントメーカーとしての地位をより強固なものにすべく、挑戦を続けていました。急成長の兆しを見せる萌芽期にどんな挑戦があったのか、見ていきましょう。

1970年 鶴見工場落成式の様子
挑戦、失敗、成長
当時のボールジョイントは給油型と呼ばれるオール金属型で、定期的なメンテナンスが必要でした。メンテナンスフリー化と操縦安定性をアップする狙いからトヨタ自動車工業からの勧めもあり「無給油型」の製造に着手。しかし、これを載せたクラウンがアメリカへ輸出されると、西ドイツのボールジョイントメーカー、エーレンライヒ社(AEC社)から特許侵害の訴えを受けてしまいます。
特許使用料を払うことになりましたが、AEC社との技術提携を結ぶことで製品への影響を最小限に抑える形となりました。そこでは、鍛造と樹脂の新技術、製品の評価体制など当時の石川鉄工になかった技術的情報を得ることができ、結果として会社が大きく成長するきっかけとなりました。従来の型に満足し、自分たちの世界にこもっていたら、この後の成長はなかったかもしれません。
外の世界に出ることで、私たちはもっと成長できます。
特許使用料を払うことになりましたが、AEC社との技術提携を結ぶことで製品への影響を最小限に抑える形となりました。そこでは、鍛造と樹脂の新技術、製品の評価体制など当時の石川鉄工になかった技術的情報を得ることができ、結果として会社が大きく成長するきっかけとなりました。従来の型に満足し、自分たちの世界にこもっていたら、この後の成長はなかったかもしれません。
外の世界に出ることで、私たちはもっと成長できます。

給油型ボールジョイント

無給油型ボールジョイント
若手の挑戦が切り開いた新技術への道
AEC社との技術提携後、特許使用料や競合メーカーが台頭してきたことから自社独自の技術開発で新たに特許を取得し、オリジナルの無給油型ボールジョイントをつくることを決意します。
開発を任されたのは技術部に異動してまだ数か月の若手社員(当時22歳)。実績のない若手が任されたのは、その若さと柔軟な頭脳、そして「ものづくりへの情熱」を見込まれてのことでした。
前例のない開発への挑戦は、試行錯誤で失敗の連続。しかし、本人の気持ちはいたって前向きで、「悩んでもしょうがない。どんどんチャレンジしてみよう。少しくらい失敗しても平気だ」と考えていたといいます。
周りの上司や先輩社員は失敗を咎めることなく、そんな彼を見守り続けました。こうした中で、石川鉄工の主力製品となる「硬質樹脂と軟質樹脂を組み合わせる分割型の構造」のアイデアは生まれました。
優れたアイデアは、信頼し合い、誰もが安心して挑戦できる空気から生まれます。
開発を任されたのは技術部に異動してまだ数か月の若手社員(当時22歳)。実績のない若手が任されたのは、その若さと柔軟な頭脳、そして「ものづくりへの情熱」を見込まれてのことでした。
前例のない開発への挑戦は、試行錯誤で失敗の連続。しかし、本人の気持ちはいたって前向きで、「悩んでもしょうがない。どんどんチャレンジしてみよう。少しくらい失敗しても平気だ」と考えていたといいます。
周りの上司や先輩社員は失敗を咎めることなく、そんな彼を見守り続けました。こうした中で、石川鉄工の主力製品となる「硬質樹脂と軟質樹脂を組み合わせる分割型の構造」のアイデアは生まれました。
優れたアイデアは、信頼し合い、誰もが安心して挑戦できる空気から生まれます。
初の自社製品開発
1972年、事業の多様化、新分野への進出を目的として開発本部を設置し、さまざまな製品の開発・試作を行っていました。写真はオートアクセサリーショーに出展した際のものです。新規事業への挑戦は現在に至るまで続けられています。
石川家での家族旅行
父は仕事でおよそ家にいませんでしたが、年に一度、親戚中が集まって行く旅行には何回か顔を出したことがありました。この写真は、夏休みに京都・奈良へ旅行に行った時のものです。比叡山でかわらけ投げをしました。数少ない家族旅行の思い出ですが、力いっぱいに土器を投げたことをよく覚えています。※かわらけ投げ…厄除けを願い、高所から土器を投げる願掛け
