PRESIDENT'S BLOG夢への扉
2024.11.20
その147 “温故知新 ~ターニングポイント~” 第3回「戦後」編
1939年からおよそ6年にわたった第二次世界大戦により、浜松市は甚大な被害を受けます。焼け野原となり、人も物資も多くを失ってしまった石川鉄工所。馨の弟である石川薫明が3代目の社長となり、ゼロからのスタートとなりました。

1966年 当時の古川工場
ゼロからの挑戦
戦争では爆撃により熱処理工場が全焼したほか、そこで働いていた従業員や学徒動員の高校生ら32名の命が奪われました。また、戦後も日本の産業は物資不足、人手不足による悪性インフレーションによって、産業界は将来を全く見通せない状況にありました。そんな中でも民需転換の許可を受け、SB型トラック用Uボルトの製造へと進んでいきます。
悲劇的な状況にあっても常に前へ進むこと。
挑戦の足を止めないということ。
これが、今日のソミックにつながっています。
悲劇的な状況にあっても常に前へ進むこと。
挑戦の足を止めないということ。
これが、今日のソミックにつながっています。

戦後生産を開始したUボルト
技術の進化と次への挑戦
トヨタ自動車工業からUボルトの製造技術を評価され、玉継手(ボールジョイント)の切削加工を任され、次は組付けまで含めた発注を受けるまでになりました。これはサブアッセンブリーと呼ばれるボールジョイント単体でしたが、石川鉄工所はさらに一歩進めた操舵装置のアッセンブリーの納入を目指し、日々鍛錬することで、1955年にはそれを実現しました。
現状に満足することなく、自分たちの技術を磨くこと。技術を磨きながらも、今の一歩先へ挑戦することを繰り返してきました。
現状に満足することなく、自分たちの技術を磨くこと。技術を磨きながらも、今の一歩先へ挑戦することを繰り返してきました。

石川鉄工所が初めて製造・納入したアッセンブリー
(クラウン用のステアリングリンケージ)
(クラウン用のステアリングリンケージ)
東京での挑戦
1943年、軍用車用のボルトやナットを製造していた石川鐵工所は軍需品関係機関との連絡を密にするため、東京へ本社を移転しました。戦後1949年にはトヨタ純正部品の卸売りや小売りを開始。トヨタ以外の部品も扱うようになると営業所を2か所置くまでに至りました。品質向上により製品寿命が伸び、需要は減っていきました。きっかけは軍需でしたが、戦後も卸売りや小売りとして東京本社を残したのは、今後のグローバルな挑戦を見据えていたからかもしれません。
次の時代やステージを見据えて挑戦をしていくこと。今に囚われない挑戦をしていきましょう。
次の時代やステージを見据えて挑戦をしていくこと。今に囚われない挑戦をしていきましょう。
今、努力することを大切にし、
次のこと、もっと先のことへも意識を向ける。
次のこと、もっと先のことへも意識を向ける。
薫明さんの地域貢献
薫明さんは、昭和26年、業界・町・近隣の人たちの推挙により浜松市議会議員選挙に立候補、当選を果たした。戦後復興の最中であるが、浜松の発展に思いを馳せ、「会社の存続・成長は地域の発展とともにある」という考えの基に行動した。最近よく聞かれる「企業と地域の連携」というものである。期間は1期であったが、商工委員と建設委員を兼任し、商工会助成、工場誘致、国鉄(現JR)の高架、道路建設、公園緑地整備、市営アパート等多くの事業に関わり実績を残した。地域貢献の志は、およそ70年前に始まり、今日まで脈々と受け継がれてきた。

家族との思い出(薫明さんのご家族より)
私が子供の時には、親・兄弟・下宿従業員さん11人で生活をしていました。父との家族旅行、学校行事参加の思い出はありません。しかし、11人が仲良く同じ屋根の下で毎日家族のように時を過ごせたことが一番の思い出、宝物です。「お互いの気遣い」これが大切と学びました。ここで、エピソード一つ。父はカレーライスが苦手でした。夕飯がカレーライスの時には、「あっ、今日は出張なんだ」とわかりました。これも思い出、かな!
