夢への扉

その143 ”温故知新 ~ターニングポイント~” 第2回「事業拡大」編

ソミックの前身、石川鐵工所は1937年、自動車部品の製造を始めます。織機用ボルトの製造メーカーだった石川鐵工所がなぜ自動車部品の製造を始めたのか?そこには自動車業界へ進出する挑戦とつながりがありました。 自動車業界への進出 1936年、豊田自動織機製作所の自動車部は、商工省から自動車の量産体制を確立する義務を負うことになり、1938年、国産部品の使用を義務付けられたことから国内仕入れ先の開拓を迫られていました。浜松市出身の同社購買担当であった平野平四郎氏は、周囲に自動車部品を作ってくれる会社はないかと尋ねていたところ、石川鐵工所を紹介されました。この時のつながりが今のソミックグループに通じています。 新しい領域への挑戦は、人の縁がきっかけで生まれました。人のつながりがあればこその挑戦なのです。 武運長久 私の祖父である2代目社長、石川馨は第二次世界大戦で2度の出征を命じられ、28歳の若さで命を落としました。親族や石川鐵工所の従業員は薫の出征の時、寄せ書きと武運長久と書いた国旗を渡しています。武運長久とは、出征した兵士に対して戦場での幸運と、無事に帰ってくることを願う言葉です。国旗には数えきれないほどの寄せ書きがあり、馨の帰りを待っていた人たちの想いをこの国旗から感じ取ることができます。 志で未来へ トヨタ自動車工業の創業者、豊田喜一郎は「自分たちの手で国産乗用車をつくる」という志を持ちました。国産車はまだまだこれからという当時、社長であった石川馨は、その志に共感し、共に自動車産業で挑戦していくことを決意しました。織機用ボルトの製造は継続しながら、自動車用の部品製造にも乗り出していくことで、既存の事業を大切にしながら新規事業への挑戦を進めてきました。未来に向かう志で、共に挑戦していく。このスタンスはこれからも変わりません。 1937年から製造を開始したエンジンボルト 阿多古での疎開 私の曾祖母、福乃(馨の母)は戦時中、天竜区西藤平の阿多古に疎開していました。疎開先でも福乃や薫の娘は、阿多古の周りに工場を作り、軍需用のボルトを製造していたそうです。当時の建物は、今でも旅館として時を刻み続けています。歴史を感じられるとてもいい場所ですので、機会があったら訪ねてみてください。